名著『なぜ私だけが苦しむのか』1章の要約と感想[全8章]

なぜ私1サムネイル本、メディア
クシュナー
クシュナー

私の愛する子供は14才で天に召された。

『なぜ私だけが苦しむのか』の著者H.S.クシュナーの第二子アーロンくんは難病で若くして亡くなりました。
14年という短い人生でした。
異変に気づいたのは生後8ヶ月目のこと。

小児科で検査し、「早老症(プロジェリア)」という老いが促進するまれな難病と診断を受けました。

そして、医者からアーロンくんは成長が止まり、10代のはじめに死ぬと告げられます。

ラビであるクシュナーは宣告を受け、息子の誕生日が来るたびに別れを感じて苦しむようになりました。
「神に仕える私になぜこのようなことが起こる?どこに道理があるのだ?」
混乱します。

なぜ、息子は恋をすることも、みんなと成長することもできないのか?
なぜ、毎日、精神的にも肉体的にも苦しまなければいけないか?

ラビとはユダヤ教の宗教的指導者であり、学者だということです。
クシュナーは600家族2500人のコミュニティの宗教的指導者でした。
ラビ

この本の原題は
『When Bad Things Happen to Good People』
善良な人に悪いことが起こった時。


クシュナーはこの世界は全知全能の神が創り、平和と調和に満ちていると信じていました。

職業上、信じぬき人々に教えを説いてきました。
すべてが疑問に変わりました。
それゆえに悩み、答えを求め、問い続けます。

私も娘が重い障害を持って生まれてきました。
私も答えを求めています。

娘が生まれて数年間、世界の色彩が消えました。
人生最高の瞬間の日に、夜の海のど真ん中に妻と放り出された気分になりました。
夜の海
私は罰を受けるべき人間かもしれない、でも娘にはなんの罪もないではないか?
今でも医師が娘の病状を説明する時の世界がしぼんで暗い真空になったあの日ははっきり覚えています。

この本は、そんな私の心を軽くしてくれました。

クシュナーや私のように世界の不条理に直面し、苦悩の中にいる方へ、自分自身のためにまとめていきます。

クシュナー
クシュナー

なぜ、善良な人が不幸に見舞われる?

私は特定の宗教を持っていませんが娘の障害に混乱し、神や因果律を考えました。
どうにか納得して前に進みたかったのです。

しかし、因果応報の考えは私をますます混乱させました。

「試練は乗り越えられる者にやってくる」という言葉が私を苦しめました。
どんなに私が努力しても娘は恋をしたり、結婚したりはできないと察したからです。

そして、私は根拠のない罪悪感を抱えました。

不条理に対して、自分に罪悪感を、怒りを向けているすべての人の心が少しでも軽くなることを願います。
第一章のタイトルは「なぜ、私に?」です。

まずクシュナーはなぜこのような不条理が起こるのかをこの章で検討していきます。



名著『なぜ私だけが苦しむのか』1章のまとめと感想[全8章]

なぜ、善良な人が不幸に見舞われるのか?

クシュナーは最大にして重要な問いを立てます。

クシュナー
クシュナー

なぜ、善良な人が不幸に見舞われるのか?

正しきものは救われ、悪しきものに災いが起こると多くの書物に書かれています。
とすれば、おかしい。

クシュナーは聖職者として神を信じ、教区の人々に救いの言葉と祈りを捧げてきました。
多くの人々の苦しみに寄り添い、道理をとなえ救っていたはずでした。

自分の子が難病と知るまでは世界は素晴らしく、愛と平和に満ちていました。
美しい世界

しかし、疑いが生まれました。
この世界はなんなのだ?

神に仕える仕事をしていただけに、その悩みは深く、信じぬいたものを疑う苦しみを味わいます。
クシュナーは6つの問いを立て検証していきます。

問1.犯した罪にふさわしい報いか?

クシュナーはラビになって間もない若い時に一組の夫婦の苦悩に遭遇します。

その夫婦には大学一年生になった頭の良い19歳の娘がいました。
しかし、娘は突然、登校途中に脳の血管が破れ、そのまま亡くなってしまいます。

朝食を食べていた夫婦は、医者からの電話でその事実を告げられます。
呆然とする女性

悲しみ、呆然とした夫婦は救いを求めシナゴーグ(教会)に相談し、クシュナーにこう語り始めました。

「ラビ、私たちはこの前のヨム・キップワァーの断食の日を守らなかったのです」

これを聞いたクシュナーは驚き、一瞬、何を言っているのか理解できませんでした。
夫婦は宗教儀式をおこたった罰として若い娘が死に至ったと語ったのです。

夫婦も娘の死をなんとか理解しようとしました。
そこで、教えや書物にある「不幸はその人の犯した罪の報いである」から考えを整理しようとしたのです。罪の報い

この教えは神は正しい裁きをし、災いを受ける者は裁きを受けるに値する人間だ、と世界を秩序立ててくれます。

これによって人々はよき行いを進んでします。
悪人は勝手に自滅の道をたどるでしょう。

しかし、この因果応報こそが夫婦に安らぎを与えるどころか、よりみじめな思いにさせました。

「神はその人にふさわしいものを与え、不幸はその人のまちがった行いのゆえ」
この言葉は説得力があります。
しかし、クシュナーは限界があると感じます。

これではいかなる災いが起きた時にも人は自分を責め、時に根拠のない罪悪感を持ち、自分に憎悪を向けてしまう。
それは正しいのか?

自己嫌悪

昔は世界が狭く「犯した罪にふさわしい報いが起きた」という考えが通用しやすかった。
しかし、今はどうでしょう?

世界中のニュースを見れる現在では、不条理な事件が多すぎる。

先ほどの夫婦のように断食を守らなかっただけで尊い娘の命が奪われる世界はあまりにも冷酷です。

冷たい世界

賞賛に値するような行いをした人も罰を受ければ悪人なのでしょうか?
すべてに当てはまる考えではないのでないか?

問2.時間が経てば明らかになるのか?

長い時間軸で考えれば「人は自分のまいた種を刈り取るのだ」という考えがあります。
そのうちに神の計画の正しさに気づける。

これはどうでしょう?

年をとって貯めた財産をだまし取られ、取り返す時間のないまま亡くなる人がいます。
人生の仕事をまっとうできずに死んでいく正しい人がいます。

世界は教えのようにきちんとした場所とは思えない、そうクシュナーは考えます。
混沌

正しき人の中にも時間の経過がただの刑罰に感じる人がいます。
時はただ去り、十分ないやしの時がないまま人生を去っていく人がたくさんいます。

「時間が経てば解決する」と楽観的に生きれない人々がいる。
楽観的という言葉が届かない人々がいる。

子供や家族が苦しんでいて自分が無力だと知った時に、楽観的に生きることはむずかしい。
楽観的に生きることが罪悪感つながる時もあります。

時間の針が、鋭いトゲとなって刺さる人もいます。
時間もまた万能とは言い難いです。

問3.はかり知れない理由があるのか?

我々、人間には「神の偉大な意志ははかり知ることができない」という考えがあります。
これはどうでしょう?

ヘレンという女性の話をクシュナーは例にとります。

ヘレンはある日、日常生活を送るのが難しいほどの疲労感に襲われます。
診断を受け、医師から多発性硬化症と告げられます。
聴診器
徐々に悪化し、最後は車椅子から離れられなくなり、排泄も自分でできず、ついには死に至るというものでした。

ヘレンは事実を聞いて泣き崩れ、こんな仕打ちを受ける覚えはない、と神に問います。

その時、夫はこう語ります。
「そんなことを言うものではない、
ぼくたち人間があれこれ言うものじゃない。
神様は治そうと思えば治してくださる。
そうでなければ何か偉大な計画がある、
今は信じるのだ」と。

ヘレンはその言葉の中に、やすらぎと勇気を見出そうとしました。
もちろん彼女も神に怒りや疑いを持ちたいわけではありません。

しかし考えれば考えるほど、自分の人生の運転席には誰も乗っていないのではないかという思いが強くなりました。
車の写真
裏切られ傷つけられたという思いが怒りに変わり、その怒りを持つ自分自身に罪の意識が襲ってきます。
彼女は打ちのめされ、孤独でした。

彼女は病気と罪の意識で二重に苦しみました。

劇作家ソーントン・ワイルダーは世界は美しいつづれ織りのようになっているのだ、と言います。
つづれ織り
近くで見れば複雑で、裏側から見るとちくはぐな編み物です。
しかし、距離をおいて表から見ると美しい芸術作品となっています。

わたしたち人間はその糸の一本のようなもので世界を正しく眺めることはできないと。

我々は織物の糸なのか?

いや、人間ひとりの価値は重く尊いものだ、
とクシュナーは考えます。
ラビとしても人の価値を軽く考えることはできません。

最終的に美しい世界だとしても、理にかなわない苦しみや犠牲を強いられ、その理由すらわからず寿命を迎える人がなんと多いことか。

世界の計り知れない芸術作品は、神しか眺められないのでしょうか?

問4.なにかを教えようとしているのか?

次に「苦難」には教育的意味があるか否かについてクシュナーは考えます。

ここでは、ロンという若い薬剤師の話が出てきます。

ある日、ロンの働いている薬局に麻薬中毒者の強盗が入ってきます。
拳銃を突き付けられ、売り上げを渡そうとロンはレジを開けようとしますが、よろめきます。
強盗はロンが拳銃を探していると勘違いし、とっさにピストルを撃ってしまいます。
強盗 (1)
ロンは腹部を撃たれ脊髄を損傷し、歩けない体になってしまいました。

友人は歩けなくなったロンをなぐさめようとこんな話をします。

「人生にふりかかることには理由がある。
すべては、ぼくたちのことになると信じている」
「きっと女の子に人気があってうぬぼれて、
派手な車に乗って金儲けのことばかり考えているきみに神は思慮深く、
他人を思いやる人間になってほしいと思ったのさ」
「神はきみを立派に成長してほしいと今回の試練を与えたんだ」

あなたがロンだったらどんな思いになるでしょう。
お察しの通り、起き上がれるなら、
その友人を殴りつけているところだったそうです。

殴りつける

失意に沈んでいる時に他人から、全ての出来事に意味があってきみは最善の道を歩んでいるんだよ、と言われても心の支えになるどころか余計混乱してしまいます。

親がちょっと目を話した隙にプールで子供が溺れて死んでしまった親に何を教えようとしているのか?
心構えを教えた時にはすでに子供はいないではないですか。
子供の命を代償にするには取るに足らない教訓だし、犠牲が大きすぎます。

さらにクシュナーは言います。

神が障害児をつくったのは、
周囲の人間が同情の心や感謝の気持ちを学ぶためなのだ、
などという人たちに私は怒りを覚えます。

だれかの精神的な感性を深めるために、
どうして神は人ひとりの人生を
そこまでゆがめてしまわなければならないのですか。

なにかを教えようとしてくださるのだったら、
段階を踏む必要がある。

数学のテストでいい点数を取れなかった生徒をハンマーで殴って何になるのでしょう?

問5.信仰の強さを試しているのか?

悲劇とは試練(テスト)である、この考えはどうでしょう?
試練

創世記で神はアブラハムに信仰の強さと忠誠心を確かめるため、苦難を与えます。
神は息子の命をささげよと命じました。
アブラハムは見事その試練に合格し、信仰の強さを示し、惜しみない報奨を約束されました。

しかし、クシュナーは息子が死ぬまでの14年間を振り返り、こう語ります。

神は私のうちにある信仰の強さを見抜き、
苦しみを乗り越えられると見抜いたので、
他の人でなくこの私を選んだという考え方によって、
安らぎを覚えることはありませんでした。

神が私を選んだという”特権意識”を感じたことはなかったそうです。

クシュナーはラビとして多くの人と接し、語り、救ってきました。
その中には苦難に出会い、それを乗り越えられず人生を投げやりになってしまった人々をたくさん見ました。

私たちをテストしているのなら、多くの人々が落第しています。
計算違いが多すぎます。
計算間違い

問6.よりよい世界への解放なのか?

今までの問い全てに納得できない場合、
「この苦しみに満ちた世界から解放し、
よりよい世界に連れて行ってくれている
この考えはどうでしょう?
天国

子供を亡くした親に
「喜びましょう、お子様は解放されました。天に召され、幸福な場所にいます」。
と聖職者から言われた親はそのまま喜ぶことはできるでしょうか?

正義を求め、神の公平を信じたいと思うがゆえに
私たちは生命はこの世だけではないと考えようとします。
しかし、この希望については今でもまったくわかっていません。

どんなに科学が発達しても、
“あの世”を証明するのは困難です。

あの世を信じ、公平性を信じるのはすばらしいことです。
しかし、この世に生きている以上、
今この瞬間の正義や意味を考えるべきです。

よりよい世界があったとしても、
今のかけがえのない生命を大切に考えない理由にはなりません。

共通の誤り。

クシュナーは不条理な息子の生涯をラビの視点から理解しようとしてきました。
苦悩や苦痛の正当性を探しました。

私は特定の宗教を信仰していませんが、
娘が障害を持って生まれた時、神や運命を理解しようとしました。
それは私の想像を超え、見通しが立たなくなったからです。

こんなことが起きて良いのか?
だとしたら、理由はなんだ?

私の心をつなぎとめるために、
再び理解可能な世界にするために大きな力や運命の存在にすがろうとしました。
しかし、心は落ち着きませんでした。

クシュナーはついに、こう考えます。
「人生の苦しみや苦痛は神とは無関係かもしれない」

「どうして神は私をこんな目に合わせるのだろうか?」
という問いが見当違いだったかもしれない。

「わが助けは神から来る」
と詩篇に書かれているが、
苦しみの源とは書かれていない。

そこでクシュナーは聖書の中で、
人間の苦悩についてもっとも徹底的に考察されていると思われるヨブ記を検証することにしました。
聖書イメージ

第一章まとめ

クシュナーはラビとして神の教えを守り、
多くの人々の心に寄り添い、道理を説き、救ってきました。
我が子が難病とわかるまではその信仰に揺らぎはありませんでした。

クシュナーも一人の人間でした。

聖職者として多くの人の苦しみを目の当たりにしていたはずなのに
「なぜ私だけがくるしむのか?」
そんな考えを胸に抱きます。
入院

私も娘が障害を持って生まれたことを知った時「世界で今、一番苦しんでいるのは私だ」と思いました。
地球全体が私に覆いかぶさるような感覚がありました。

国や宗教を越え、我が子に起こった苦しみや悲しみの耐え難さは共通のものがあります。

いや、子供だけではなく、この世界はたくさんの不条理で満ちています。
不条理

善人が、無垢な子供が悲しい事故に巻き込まれます。

どう受け止めるのか?
どう考えれば良いのか?

この本はそんな苦しみや困難を受け、苦しみながらも前進せざるを得ない皆様の支えになるはずです。
次は『なぜ私だけが苦しむのか』の第2章『ヨブ記』をまとめます。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
充分、自分を責めたかもしれません。
一緒に罪悪感を手放していきましょう。

そして、どこかにあなたの話に耳を傾け、共感してくれる人がいます。
一緒に考えともに歩みましょう!

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